今回は、僕が尊敬してやまない
ポッドキャスト界の二大エンターテイナー、
ヒロカズエモーション氏とアサカワズ氏について、
改めて分析してみたいと思う。
まず、両者ともに共通して言えるのが、
ポッドキャスト番組において
最重要項目の一つである「声」が良い、ということだ。
両者とも、素晴らしい声質を備えている。
ヒロカズエモーション氏の、ラジオパーソナリティ然とした
艶とハリのあるハイテンションな声、
アサカワズ氏の、誰が聞いても心地のよい、
ややハスキーな優しい声。
ただ単に「音」として捉えた場合でも、
十分コンテンツとして成り立つ要素を兼ね備えている。
また、彼らの「笑い声」も注目に値する。
「笑う」という動作は、突発的な呼吸を伴うため、
ポッドキャスターの中には、聞いていて
あまり心地の良くない笑い方をするMCも多数存在するが、
彼らの笑い方は完璧だ。
楽しそうでいて、加えて、その笑い声だけで
聞いている人間の笑いも誘う、そんな笑い方だ。
次に注目すべき点は、それぞれの
番組に対するスタンスだ。
ポッドキャストというブームを、
従来のネットラジオとは一線を画す
ひとつの新ジャンルと捉え、開拓し、挑戦していくスタイルは
両者とも変わらない。
ただ、ここで興味深いのは、そのアプローチの仕方が
両者でまるで違う、という点だ。
ポッドキャストを「音楽」、あるいは
「ファッション」に類似するものと捉え、
ひたすらセンスの良いマテリアルを取り揃え
番組を構成していく、ヒロカズエモーション氏。
ブログのタイトル、デザイン、そして
ヒロカズエモーション氏自身の魅力を前面に打ち出すMC。
全てが統一されたセンスでまとめられ、
そこはかとなく漂う、「デキる」雰囲気が
聞いている人間を虜にしていく。
一方で、
ポッドキャストを「音声を使ったアート」と捉えるのが
アサカワズ氏だ。
ひたすら客観的に、「作品」としての
面白さを、ストイックに追求する。
ジングル、BGM、そして自身のMCすら一つの要素として考え、
それらを、これ以上ないくらいのクオリティでブレンドし、
ポッドキャスターとして最も重要なスキルであると考えられる
「ドライさ」、そして「繊細さ」を武器に、
聞く人の立場に立って音声ファイルを創造する。
両者とも、スタンスは違えど、
それぞれ、
独特のスタイルの頂点を極めるにいたっている。
最後に、
両者の「MCとしてのキャラクター」について。
自身の過去に蓄積された
膨大な記憶や知識をもとに、現在の生き様を
切り取るように表現していくのがヒロカズエモーション氏だ。
その場の状況や空気、または
相手となるMCのキャラクターを素早く把握し、
臨機応変、変幻自在に話題を操っていく。
その話題は瞬時にセレクトされ、また、
尽きることもないので、
ほぼノーカットで番組が成立してしまうという、
類い稀なるMCだ。
アサカワズ氏は、柔軟な話術をもつという点では
ヒロカズエモーション氏と共通するが、
彼の場合は、時事ネタや流行のワードなどをうまく取り入れ
自身の厭世観を活かした、決して嫌味にならない、
多くの賛同者を得ることができる話し方が印象的だ。
また、題材をもとに話題を料理し、
予め自身に蓄積された、思わず誰かに伝えたくなるほどの
ハイ・クオリティなネタを引き出すスタイルは、
聞いている人間を圧倒する。
編集を見据えた丁寧な話術に長ける一方で、
極めて突発的な、アトランダムな笑いを誘う
スキルも兼ね備えている、やはり他に例をみないMCだ。
以上、
まだまだ伝えきれない魅力はあるのだが、僕なりに、
この二大巨匠について述べてみた。
僕はこれからも、この両者に、
最大限のリスペクトを捧げていく所存だ。
2007年03月15日
2007年03月06日
「笑ってやらねえ」という意志
僕がポッドキャストを聞くとき/作るときに
作動させるようにしている感性は、
「笑ってやらねえ」という意志だ。
これは、僕が高校生のとき、つまり
思春期の真っただ中にいるときの
「笑い」に対してのスタンスそのものだ。
授業中、先生方はよく、授業以外の「ネタ」を挟み込み、
生徒である僕達を笑わせようとしていた。
教師の立場としては、それは
小難しい授業の合間に挟み込む
ブレイクのつもりであったり、
または、
「生徒にウケたい」という
自己主張の発表の場だったのかも知れないが、
生徒達には、少なくとも、その頃の僕自身には、
そんな思いは届かなかった。
まだ年齢の若い僕達は
虚無主義に憧れ、また、
教師という絶対的な権力を握る立場の人間に、
いかにして反発するか?だけを考えていたからだ。
教師の言った「ネタ」に対して、
いかに「面白くねえよ、バカ」と毒を吐き、
「リアクションを一切とってやらない」ことによって
その場の空気をスベらせることができるか。
僕らはそれだけを考え、
日々、教師のネタに対抗していた。
そんな高校時代を送った僕は、
今、再びその感性を起動させ、
今日も誰かのポッドキャスト番組の再生ボタンを押す。
「笑ってやらねえ」。
もちろん、自分がポッドキャスト番組を制作するときの
スタンスも同じだ。
「笑わせてやる」ではなく、
「笑ってやらねえ」にいかに対抗するか。
自分の声が入っているから。
自分の喋った事だから。
そんな理由で特別扱いはしない。
僕は、
虚無主義と反発精神に満ちあふれた
高校時代の僕自身に聞かせるつもりで、
日々、音声を編集している。
作動させるようにしている感性は、
「笑ってやらねえ」という意志だ。
これは、僕が高校生のとき、つまり
思春期の真っただ中にいるときの
「笑い」に対してのスタンスそのものだ。
授業中、先生方はよく、授業以外の「ネタ」を挟み込み、
生徒である僕達を笑わせようとしていた。
教師の立場としては、それは
小難しい授業の合間に挟み込む
ブレイクのつもりであったり、
または、
「生徒にウケたい」という
自己主張の発表の場だったのかも知れないが、
生徒達には、少なくとも、その頃の僕自身には、
そんな思いは届かなかった。
まだ年齢の若い僕達は
虚無主義に憧れ、また、
教師という絶対的な権力を握る立場の人間に、
いかにして反発するか?だけを考えていたからだ。
教師の言った「ネタ」に対して、
いかに「面白くねえよ、バカ」と毒を吐き、
「リアクションを一切とってやらない」ことによって
その場の空気をスベらせることができるか。
僕らはそれだけを考え、
日々、教師のネタに対抗していた。
そんな高校時代を送った僕は、
今、再びその感性を起動させ、
今日も誰かのポッドキャスト番組の再生ボタンを押す。
「笑ってやらねえ」。
もちろん、自分がポッドキャスト番組を制作するときの
スタンスも同じだ。
「笑わせてやる」ではなく、
「笑ってやらねえ」にいかに対抗するか。
自分の声が入っているから。
自分の喋った事だから。
そんな理由で特別扱いはしない。
僕は、
虚無主義と反発精神に満ちあふれた
高校時代の僕自身に聞かせるつもりで、
日々、音声を編集している。
