既存メディアのかかえる「絶対に放送できない」タブー事項は、何も下品な表現や差別的表現ばかりではない。
広告代理店やスポンサーなど、放送側にとって何らかの経済的・権力的利益をもたらす企業や個人に対しての批判なども、タブーとなる。
TVの野球中継が、視聴者の趣向を完全に無視して、「スポンサーのご好意により」延長されるのも、「CMの間にトイレに行っておいてください」という、視聴者にとってはなんでもない日常の行為をなぞっただけの発言をしただけで司会者が番組を降板させられるのも、すべてこの後者のタブーに準ずる仕組みだといえる。
さて、一方でポッドキャストの世界はどうだろうか?
インディーズの番組にはスポンサーこそ存在しないが、それでも、あなたがポッドキャストの世界を知っていくうちに、「本当は言いたいが、なんとなく言えなくなっている事」が存在してきているのではないだろうか?
もしもあなたが配信者で、そして、タブーなき自由な放送を心がけているのなら。
日頃より番組を聞いてくれている、受信者の方々。
場所を借りているサーバーを所有する企業。
各種ポッドキャスト・ポータルサイト。
互いを「仲間」として認識している、同配信者達。
それらに、「【意識して】メスを入れない」ということは、あなたが自分自身で勝手に構成している、前述の既存メディアのそれとそっくりな、「ポッドキャストのタブー」にほかならない。
そもそもサイバースペースは、既存メディアよりも、いくらか自由な表現ができる世界だ。
既存メディアにはない自由な表現をポッドキャスト上で謳歌するということは、それらの「ポッドキャストのタブー」を抹殺することだといえるだろう。
ちなみに僕は、下品な表現や差別的表現に関するタブーには人一倍配慮しているが、後者であるこの「ポッドキャストのタブー」に関しては、一度も気にしたことがない。むしろ、積極的にタブーを破壊していくよう心がけている。
それが僕にとっての「表現の自由」だからだ。
2008年04月24日
2008年04月14日
若年層に対する自己主張が老いを招く
歳をとることは、害悪である。
死に向かって、生物としてのリミットが短くなってんだから、自分にとって良い状態ではないに決まってる。
だから年上は敬まれるし、崇められるし、大切にしなければならないものとされている。
ただ、歳をとってることに全然自覚がなくて、害悪を受けてるなんてこれっぽっちも感じさせない勢いの人がいる。
こういう類いの人々は、必ずといっていいほど老けてない。つまり、年齢を感じさせない。
年相応に老けていく人々とそうでない人々。
その違いはどこにあるのか、最近よく考える。
その一つに、「若年層に対する自己主張」があると思う。
このときの「若年層」とは、世間一般の若人達を指す。つまり、対象が自分ではなく、他者なのだ。
自分自身の若い頃を思い出し、反省もしくは改善点を見いだしながら生きてくってことは、誰しもやってることだ。
そうではなく、何故だか世の若者達と、歳をとった自分を比較し、主張しようとしてしまう行為だ。
誰も聞いちゃいないのに、
「若い人はどうだか知らないけど」って言う。
「19,20歳のコじゃあるまいし」って言うのが口癖になってる。
「僕には分からないけど、若い人にはウけるんじゃないすか」って言う。
「若い」というだけで世の若者をひとくくりにし、例え自分の中だけの話であっても、一方的に自己主張や攻撃を繰り返す。
それは行き場のない敵対視のようにもみえる。
こういうことを言う人を見ると、僕は「あぁ、老けてるなぁ」って思う。
前述のように、社会のシステムは年上を大切に扱うべきものとして構成され、浸透している。
なのに老けてる人々は、必死になって、躍起になって、まるで老いた自分を正当化するかのように(本来正当化できる社会のシステムなのだが)、無駄な自己主張を繰り返す。
若者としては「?」っていう感情以外の何物でもないだろう。
敬うべき立場の人間から、なぜか必死に抵抗されてしまったときの無気力感。
そして、この一方的な「負け犬の遠吠え感」が、さらにある種の郷愁をも生み出す。
「…何焦ってんだよ?おっさん(おばさん)?」
若者達は多分、そう感じるに違いない。
その点、老いを感じさせない人々っていうのは、無駄に若年層を比較対象にしたりせず、常に自分の中で切磋琢磨してる印象を受ける。自分の物差しっていうのを大切にしてる。
「私は私、人は人」。
このシンプルなスタンスを純粋に貫いている人ほど、輝いてる。
だが。
「私は私、若者は若者」。
こう言い換えてしまった段階で、あなたの老化は急激に進む。
同時に、進化も止まるだろう。
自分自身に自信をもつことは決して悪いことではない。
ただそれを、世間一般の若年層にアピールする必要は全くない、と僕は思う。
死に向かって、生物としてのリミットが短くなってんだから、自分にとって良い状態ではないに決まってる。
だから年上は敬まれるし、崇められるし、大切にしなければならないものとされている。
ただ、歳をとってることに全然自覚がなくて、害悪を受けてるなんてこれっぽっちも感じさせない勢いの人がいる。
こういう類いの人々は、必ずといっていいほど老けてない。つまり、年齢を感じさせない。
年相応に老けていく人々とそうでない人々。
その違いはどこにあるのか、最近よく考える。
その一つに、「若年層に対する自己主張」があると思う。
このときの「若年層」とは、世間一般の若人達を指す。つまり、対象が自分ではなく、他者なのだ。
自分自身の若い頃を思い出し、反省もしくは改善点を見いだしながら生きてくってことは、誰しもやってることだ。
そうではなく、何故だか世の若者達と、歳をとった自分を比較し、主張しようとしてしまう行為だ。
誰も聞いちゃいないのに、
「若い人はどうだか知らないけど」って言う。
「19,20歳のコじゃあるまいし」って言うのが口癖になってる。
「僕には分からないけど、若い人にはウけるんじゃないすか」って言う。
「若い」というだけで世の若者をひとくくりにし、例え自分の中だけの話であっても、一方的に自己主張や攻撃を繰り返す。
それは行き場のない敵対視のようにもみえる。
こういうことを言う人を見ると、僕は「あぁ、老けてるなぁ」って思う。
前述のように、社会のシステムは年上を大切に扱うべきものとして構成され、浸透している。
なのに老けてる人々は、必死になって、躍起になって、まるで老いた自分を正当化するかのように(本来正当化できる社会のシステムなのだが)、無駄な自己主張を繰り返す。
若者としては「?」っていう感情以外の何物でもないだろう。
敬うべき立場の人間から、なぜか必死に抵抗されてしまったときの無気力感。
そして、この一方的な「負け犬の遠吠え感」が、さらにある種の郷愁をも生み出す。
「…何焦ってんだよ?おっさん(おばさん)?」
若者達は多分、そう感じるに違いない。
その点、老いを感じさせない人々っていうのは、無駄に若年層を比較対象にしたりせず、常に自分の中で切磋琢磨してる印象を受ける。自分の物差しっていうのを大切にしてる。
「私は私、人は人」。
このシンプルなスタンスを純粋に貫いている人ほど、輝いてる。
だが。
「私は私、若者は若者」。
こう言い換えてしまった段階で、あなたの老化は急激に進む。
同時に、進化も止まるだろう。
自分自身に自信をもつことは決して悪いことではない。
ただそれを、世間一般の若年層にアピールする必要は全くない、と僕は思う。
